珍しく昼どきにブログを開いている。
どういう経過だったかは、ほとんど覚えていないのだが、このところ東京新聞さんの記事に私のことを取り上げていただいている。第一面に、この1月3日から登場したので、ちょっと驚いた。「戦後80年、私のことば」という企画の最初に、写真入りで取り上げている。
それからやや間をおいて、昨日、3月6日には、1945年(昭和20年)3月10日夜の「東京下町大空襲」のときのときの思い出が、やはり第一面に写真入りで出ていた。この夜の空襲は、焼死者が10万人も出たと伝えられる大惨事になった。この夜は、警報が解除になったあとも、空の色が異様に赤いままなのが気になった。そこで父と一緒に、近くの高台の外れ、東北線の田端・上中里間の線路がすぐ下を走るところまで様子を見に行ったのだった。
そこで見たのは、下町の一帯を覆い尽くすような、巨大な火災が広がっている光景だった。風は西から東へ、つまり左から右へと、かなり強く吹いていた。巨大な煙の塊が、雲のように立ち上がって低い角度で上がって行き、その下には盛んな炎が燃え盛っているのだった。現場には他にもかなり多くの人たちが様子を見に出てきていたのだが、周囲は思いのほか静かだった。低い声で、「あの辺もダメだな」などと、つぶやく程度だった。しばらく見てから、父と二人で帰途についた。
そのとき、一機の日本の戦闘機が、火災を確かめるように頭上を飛んで行った。私は「あの飛行機の人も、悔しいだろうね」と父に言ってみた。「きっと仇きをとってくれるよ」いった、力強い言葉を期待したのだが、父も無言のままだったことを、今もはっきりと覚えている。父はあのときに、「この戦争には負ける」ということを自覚したのではないかと、今は思う。
あの戦争から、もう80年もたってしまったのだ。アメリカを相手に戦争が始まったのは、私の小学2年のときだった。そして終わったのが6年生の8月15日だった。アメリカを相手に戦って勝てると思ったことの異常さが、今ならよくわかる。あんなことは、もう二度としてはならない。
どういう経過だったかは、ほとんど覚えていないのだが、このところ東京新聞さんの記事に私のことを取り上げていただいている。第一面に、この1月3日から登場したので、ちょっと驚いた。「戦後80年、私のことば」という企画の最初に、写真入りで取り上げている。
それからやや間をおいて、昨日、3月6日には、1945年(昭和20年)3月10日夜の「東京下町大空襲」のときのときの思い出が、やはり第一面に写真入りで出ていた。この夜の空襲は、焼死者が10万人も出たと伝えられる大惨事になった。この夜は、警報が解除になったあとも、空の色が異様に赤いままなのが気になった。そこで父と一緒に、近くの高台の外れ、東北線の田端・上中里間の線路がすぐ下を走るところまで様子を見に行ったのだった。
そこで見たのは、下町の一帯を覆い尽くすような、巨大な火災が広がっている光景だった。風は西から東へ、つまり左から右へと、かなり強く吹いていた。巨大な煙の塊が、雲のように立ち上がって低い角度で上がって行き、その下には盛んな炎が燃え盛っているのだった。現場には他にもかなり多くの人たちが様子を見に出てきていたのだが、周囲は思いのほか静かだった。低い声で、「あの辺もダメだな」などと、つぶやく程度だった。しばらく見てから、父と二人で帰途についた。
そのとき、一機の日本の戦闘機が、火災を確かめるように頭上を飛んで行った。私は「あの飛行機の人も、悔しいだろうね」と父に言ってみた。「きっと仇きをとってくれるよ」いった、力強い言葉を期待したのだが、父も無言のままだったことを、今もはっきりと覚えている。父はあのときに、「この戦争には負ける」ということを自覚したのではないかと、今は思う。
あの戦争から、もう80年もたってしまったのだ。アメリカを相手に戦争が始まったのは、私の小学2年のときだった。そして終わったのが6年生の8月15日だった。アメリカを相手に戦って勝てると思ったことの異常さが、今ならよくわかる。あんなことは、もう二度としてはならない。