志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

東京新聞に登場しています

 珍しく昼どきにブログを開いている。
 どういう経過だったかは、ほとんど覚えていないのだが、このところ東京新聞さんの記事に私のことを取り上げていただいている。第一面に、この1月3日から登場したので、ちょっと驚いた。「戦後80年、私のことば」という企画の最初に、写真入りで取り上げている。
 それからやや間をおいて、昨日、3月6日には、1945年(昭和20年)3月10日夜の「東京下町大空襲」のときのときの思い出が、やはり第一面に写真入りで出ていた。この夜の空襲は、焼死者が10万人も出たと伝えられる大惨事になった。この夜は、警報が解除になったあとも、空の色が異様に赤いままなのが気になった。そこで父と一緒に、近くの高台の外れ、東北線の田端・上中里間の線路がすぐ下を走るところまで様子を見に行ったのだった。
 そこで見たのは、下町の一帯を覆い尽くすような、巨大な火災が広がっている光景だった。風は西から東へ、つまり左から右へと、かなり強く吹いていた。巨大な煙の塊が、雲のように立ち上がって低い角度で上がって行き、その下には盛んな炎が燃え盛っているのだった。現場には他にもかなり多くの人たちが様子を見に出てきていたのだが、周囲は思いのほか静かだった。低い声で、「あの辺もダメだな」などと、つぶやく程度だった。しばらく見てから、父と二人で帰途についた。
 そのとき、一機の日本の戦闘機が、火災を確かめるように頭上を飛んで行った。私は「あの飛行機の人も、悔しいだろうね」と父に言ってみた。「きっと仇きをとってくれるよ」いった、力強い言葉を期待したのだが、父も無言のままだったことを、今もはっきりと覚えている。父はあのときに、「この戦争には負ける」ということを自覚したのではないかと、今は思う。
 あの戦争から、もう80年もたってしまったのだ。アメリカを相手に戦争が始まったのは、私の小学2年のときだった。そして終わったのが6年生の8月15日だった。アメリカを相手に戦って勝てると思ったことの異常さが、今ならよくわかる。あんなことは、もう二度としてはならない。
 

 

春の日が暖かい

 ただいま11時半の少し前だが、春の日が窓ガラス越しに暖かい。91歳になった私が、珍しく昼間からブログを開いている。今は「みんなのうた」で「口笛吹いて(クワイ河マーチ)」を撮影した湘南ロケを思い出していた。東京ボーイスカウトの全面協力を得て、前代未聞の大規模ロケを敢行したのだった。
 当時の「みんなのうた」は夕方6時半、子供たちが家に帰ってテレビを見る看板番組だった。NHKとしても力を入れて、話題になるような画面づくりに努めていた。撮影機材も、高所撮影用のスケーリングタワーや、クレーンといった特殊車両も、自由に使うことができた。
 出演者は、スカウトの幼児クラスに当たるカブスカウトにも参加してもらった。幼児たちが大人のスカウトに助けられて成長していく姿も紹介したかった。そうなると幼児クラスには、その親たちも随伴してくる。仕事が終わって昼食は地元のレストランで摂ったのだが、その費用だけでも半端ではなかったろうと、今では思う。
 第一カットは、高い位置から海岸と行進の全景を撮り、そのカメラがクレーンで降りて来ながら、先頭が近づいて来るという仕掛けにした。私はクレーンの上に登り、腰の手拭いを引きぬいて振り下ろすのを出発の合図にした。やり直した記憶がないから、一発でタイミングは合ったのだと思う。このときの高揚感は、今も忘れられないでいる。
 自分で考えて、思った通りの演出をして、それが大抵は一発で決まって行った。何という幸せな仕事をしていたのだろうと、今では思う。
 NHKに就職したのも、幸運な偶然の結果だった。失業中だった私は、ある日妻から「NHKで何か募集してるらしいよ」と聞いて、電話で問い合わせてみたら、本当に臨時の職員募集をしていたのだった。予算の関係で延期されていたということだった。早速に就職情報誌を買って過去問の傾向などを調べた上で受けに行ったら、本当に出そうな問題ばかりが並んでいて、採用されるのが確信できた。当時私は、日本テレビでアルバイトをした経験があったから、それも役に立ったようだ。
 いろんなことがあって、楽しかった。春の日が暖かい。

夕食前の短時間に

 ただいま夕方の6時、珍しくこんな時間にブログを開いている。なぜこうなったのかは、自分にもわからない。ただ、先ごろ東京新聞さんが私の日記を記事にとりあげてくれたのが、一つの刺激になっていることは確かだと思う。私は現在91歳になっている。もうこの先あまり長くは生きていないのは当然の成り行きと思っている。総括して自分の人生を評価するとしたら、人並みよりはちょっとましな仕事をしてきたという感覚はある。何といってもやはり、拡張期にあったNHKの職員臨時募集の最終回に滑り込んだのは大きかった。夕方6時半からの「みんなのうた」の担当になり、「線路は続くよどこまでも」のロケでは東海道線準急の運転室の横に陣取り、理想的な天候に恵まれるまで何度も線路上を往復したことを、今もよく覚えている。ちょうどそのとき、自宅では長女が生まれる間際で、電話をしては妻を気づかって励ましていたのだった。その長女が、今は孫のいる身分で、私の身近で家業の社長業務を務めている。 
 NHKにそのままいたらどうなったかを、今も少しは思わないでもない。「一度はしばらく地方へ転勤になって、少し偉くなって帰ってきて、退職までに家の一軒も建ったかな」と。
 それともう一つ、「口笛吹いて(クワイ河マーチ)」の曲で、湘南海岸での大規模ロケの思い出がある。東京ボーイスカウトの全面協力を得て、撮影にはクレーン車やスケーリングタワーも動員し、私が振り下ろす手拭いを合図に、海岸での大行進が始まったのだった。現場には幼児の「カブスカウト」やその親たちも来ていたから、昼食の用意だけでも大変な出費だったろうに、NHKとしては何の負担もなしに済んでしまったのだった。

「志村家」の最後の一人になった

 ふと気がついたら、自分は「志村家の最後の一人」になっていた。わが家の子供は娘が二人だから、いずれも結婚で姓が変わっている。考えてみれば当然の結果なのだが、やや不意打ちを食らったような感覚がある。私の父は、静岡県も山梨に近い梅ヶ島村の出身である。明治時代の「創氏改名」によって、日本の庶民も個人名のほかに「苗字」を持つようになったのだが、この村には昔から「志村」の姓があったと父は言っていた。そして甲斐の国(つまり山梨県)側の武田家の落武者が、山を越えて静岡側の山村に住みついたという仮説を立てていた。だから私の家には昔から「家紋」というものがあり、それは「田」の字を傾けて平行四辺形にした「武田菱」と呼ばれるものだった。この説にどこまでの信ぴょう性があったのかは定かではないが、わが家の古い羽織などに、この紋が付いていたことは、よく覚えている。
 ただし私は正式な和服というものを着たことがないので、実生活では「家紋」そのものを意識したことは、一度もなかったと思う。その私が91歳となり、自分の居なくなった後を考えるようになったというわけだ。
 そもそも私は家系などというものには捉われない自由人でいたつもりだった。それか91歳にもなって、今さら家の名などにこだわるのは意味がない。そうは思うのだが、今の現実は自力では変更ができないのが明らかである。世界には、もともと結婚しても自分の姓は一生変わらないという国もあるが、日本はそういう国ではない、というわけだ。それだけのことだ、とは思うのだが。

珍しく昼ブログ

 今年になって初ブログを、しかもまだ外が明るいうちに書いている。自宅に小さい子供が居なくなって久しいから、今年もいわゆる正月気分らしいものもなしに通過した。ただし、東京新聞さんが「戦後80年」の企画で、1月3日の第1面から写真入りで紹介してくれたのは大きかった。
 そんなハプニングも、すべて根源は私が幼時から日記をつけるのを習慣づけられていたことから発している。これは基本的に子供が自発的に始めることではないと思う。私の場合も、父からそのように言われたから始めたことだった。だが、それは子供の成長とともに、子供の本心を記録する手段へと変化して行くことがある。そうなると、ある年代たとえば高校ぐらいからは、親への批判を開陳する場になることもあるのだ。私の父の場合は、それが家庭内の大きな問題になってしまった。
 賢い親ならば、それとなく見守って参考資料にしただろうが、権力志向の強かった父は、息子の批判を受け入れる度量を欠いていた。私はある程度の危険を感じながらも、日記帳をあえて秘匿する行動を取らずにいた。そして父親は、あるとき危険ラインを超えてしまった。このとき姉たちは「勝手に読んでおいて、バカみたい」と、父に同調はしなかった。
 この事件は結局、私が配偶者を得るために家を出たことの伏線になった。だから私の自立を助けたとも言えるのだが、文字通りの家出の決行で、線路脇の騒々しい四畳半アパートでの新婚生活のスタートという、思い出深い結果を招いたのだった。そしてまた、このアパートで私は「採用内定」という、NHKからの電報を受け取った。拡張期にあったNHKは、当時は秋にも職員の公募を行い、私はその最終回に滑り込むことが出来たのだった。


 

樋口恵子さんの「老いてもヒグチ」を読んだ

 今朝(12月23日)の朝日新聞の広告で気がついて、樋口恵子さんの新刊「老いてもヒグチ・転ばぬ先の幸せのヒント」(清流出版・1500円)を買ってきた。この人は、私には「戦友」のように感じられる。ある時期に、男女平等関連の集会で、助言者として演壇に並んで座っていた記憶がある。そんなことはもうどうもいいのだが、副題が「転ばぬ先の幸せのヒント」となっていて、帯紙の自薦文に「わたくし92歳。ムリせず、楽しく、少しがんばって、暮らしています。」と書いてあったから、私よりも1年年長なのがわかった。早速に買ってきて、一日で通読してみた。この人らしい、のびのびとした明るい筆致である。
 内容を紹介すると、各章の見出しが、格好の要約になっている。
第1章 人生100年時代の「老い」とは
 想像するより厳しい「老いの現実」をみつめよう
 来るべき「ヨタヘロ期」の背景にあるもの
 少子化、「ファミレス時代」に生きる私たち
 ファーストペンギンとして「老い」の大海へ漕ぎ出そう
第2章 老いに必要な、ライフスタイルを身につける
 「80歳調理定年」と決めて、食を確保する練習を
 「トモ食い作戦」でつながりながら体調を整える
 定年を期に、食・家事・家計の見直しをする
 何もしない老夫を動かし、気持ちよく暮らす
 スマホやパソコンを味方につければ、暮らしが広がる
第3章 健康管理・危機管理は人の手を借りても万全に
 自分の体を粗末にせず、よく生きるための検診を
 高齢になったら、安否確認と地域の助け合いが必要
 介護や病気に備えて、社会保障制度を勉強しておく
 「大介護時代」は制度や地域の支えが柱に
 介護される時に備える「ケアされ上手」の心得
 認知症は対策と周りのやさしさを味方に 
第4章 自分の気持ちを大切にする人生の終い方
 自分の命の終い方は、自分で決めておく
 はかどらない身辺整理は「委ね方」を考える
 財産の行き先は自分の意志で遺言書に残す
 葬儀は、人に移動を強いない形で
 お墓問題は、あとに残る人が困らないようにしておく
第5章 この先も人生の主人公。前向きに生きるには
 体を鍛え外出し、人との交流で心も元気に
 やがてくる友との別れ、だからこそ交流を深めて
 まだまだ現役。人の役に立つことを考えてみる
 高齢施設選びは、事前の準備をしっかりと
 介護もデジタル時代へ。当事者として知っておこう

(これを読んで、買って読んでみようと思う人が、「分かったからいいや」と思う人よりも、多くなることを願っています。)

昨日が日米開戦の日、12月8日だった

 気がついたら、昨日が12月8日だった。1941年、昭和16年のその朝に、ラジオが日米開戦を告げたのだった。私は小学(当時の呼称では「国民学校」)2年生だった。目がさめたら、家の中が異様に騒がしく、上の兄が興奮気味に「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と臨時ニュースの文言を繰り返していた。ちなみに、これはマレー半島方面に上陸を始めたことを指している。ハワイに奇襲攻撃をかけ、アメリカ太平洋艦隊を壊滅させたことなどは、その後の昼ごろにかけて、順次にくわしく伝えられたのだと思う。朝になって学校へ行ったら先生が「アメリカ、イギリスとの戦争が始まりました」と話してはくれたが「だからしっかり勉強しましょう」という以上のことは、先生にもわからないようだった。
 それから後は、日ごとに「大戦果」の発表が続いて、家の中も学校も興奮状態だった。入ってくニュ―スは景気の良いことばかりで、日本軍がどこまで前進したとか、占領したという話がつづき、南方の資源地帯が手に入ったから、長期戦になっても大丈夫という、一種の安心感まで芽生えてきたのだった。子供たちに嬉しかったのは、お菓子の特配まであって、その袋には南方の兵隊さんが両手に一杯の菓子袋を抱えて差し出してくれる、漫画入りの地図が印刷されていた。気のきく業者がいたと見えて、教室の黒板の横には、大きな世界地図が貼り出され、それには切り取って貼り付ける小さな日の丸の旗がたくさん用意されていて占領地に順次貼ることになっており、やや大きな日の丸は、戦争が日本の勝利で終ったときに、太平洋のまん中に貼ることになっていた。今から思えば時代に便乗した商魂なのだが、二年生としては、学校へ行ってその地図を眺めるのは楽しかった。
 ただし学年が上がるとともに、そんな地図も見なくなった。ソロモン群島のガダルカナル島というのが日本軍が前進した先端になるのだが、オーストラリアの北東で、日付変更線にも近いところにある。日本の国力で、よくもそんな遠くまで行ったものだと思う。ただし当時のニュースでは、「米豪(オーストラリアとアメリカ)との交通を遮断」などということを論じていた。
   しかしそのあたりが日本の国力の限界だった。周知のような経過で日本は敗戦へと進んで行った。南方の資源を戦力化するだけの知恵も力も時間も足りなかった。日本の敗戦は「順当負け」だったと私も思う。その後6年生にになった夏の日に、ラジオから「天皇陛下お言葉」が流れて、戦争は突然に終わった。そのあと、アメリカ軍の占領下で、日本は稀に見るような「幸せな戦後」を経験したのだった。

珍しく朝ブログ

 珍しく、朝のうちにパソコンを開いています。明るく暖かい日ざしが、窓のレースのカーテン越しに入ってきます。91歳の身体は、あまり頑健ではありませんが、この年にしては元気な方だろうと思っています。妻を亡くしてから間もなく6年になることに、先ほど記録を見て気がつきました。長いような短かいような、ちょっと不思議な感覚です。幸いにして二人の娘が今も身近にいてくれるので、日常の暮らしには何の不便もありません。時々は、孫が子供たち、つまり私の曽孫(ひまご)を連れて遊びに来てくれたりします。申し分のない老後の日常と思っています。
 私が生まれたのは1933年、昭和8年でした。小学校の二年生のときに太平洋戦争が始まり、最初のうちは日本軍の連勝で、学校の教室にも大きな世界地図が貼り出され、日本軍が占領した場所には小さな日の丸の旗を貼りつけ、別に大きな日の丸も用意されていて、それは戦争が日本の勝ちで終ったときに、真ん中に貼ることになっていました。南方の資源地帯が手に入ったので、日本はますます豊かに強くなるという、楽観的な気分さえあったのです。しかし実際は、学年が進むにつれて戦況は厳しくなり、学校の男の先生が出征したり、空襲を受けることを予想して、東京から郊外へ「学童疎開」が行われたりするようになりました。私はこのとき「汽車に乗れる」というのが魅力で参加を申し出たのですが、疎開先での粗末な食事に幻滅して、一か月ほどで母に迎えに来てもらったのでした。
 その結果として、私は小学生(当時の呼び名は「国民学校生」)として、東京都内で空襲を体験することになりました。当時は特別な事情がある者以外は、子供は都内に残っていてはいけないことになっていましたから、私は数少ない「空襲を体験した子供」の一人になったのでした。
 結果的に、私の家は空襲では焼けなかった少数派になりました。周囲は何度かの空襲で次々に焼け野原になったのですが、山の手の一角にあった私の家は、樹木の多い屋敷町だったこともあり、焼夷弾の直撃を免れて無事であったのです。その結果、私の家には戦後になって「非戦災者税」という、発音しにくい特別な税金がかけられたと聞いています。 

ブログ再開してみます

 パソコンがウイルスに侵入された形跡があり、しばらく休止して様子を見ていましたが、どうやら平常に戻っているようなので記事を書いてみます。
 私は91歳になり、あまり活発ではなくなっていますが、幼時から始まって長く続いている日記を書く習慣は、ブログという形で、まだ先まで続けられるといいと思っています。
 私の現状は、すでに妻は亡くしましたが、幸いにして娘たちや、その子、孫たちが、活発に出入りする、にぎやかな家になっています。孫の下の曽孫(ひまご)も二人できて、だんだん人間らしく、可愛らしくなってきているところです。ただし、男の子は持たなかったので、志村の姓を名乗るのは、私が最後の一人になりそうな成り行きです。
 私が生まれたのは昭和8年、1933年です。国民学校(当時の小学校の呼び名)の2年生のときに、太平洋戦争が始まりました。そして6年生の時に東京で激しい空襲を体験して敗戦となり、アメリカ軍の占領下に置かれた日本という、想定外の環境に置かれたのでした。「鬼畜米英」と呼ばれていた元敵兵は、子供たちにキャンディーを配ってくれる、やさしい人たちばかりでした。米軍のジープに「ハロー」と手をあげて追いかける私たちを、交番の巡査は事後に「それでも君たちは日本の少年か」とお説教をして渋い顔をしたのですが、私たちは、そのときだけ頭を下げてやり過ごしました。
 戦争自体も、初期には日本軍の連戦連勝で、南方の資源地帯を占領したので、間もなく日本は豊かになるという、明るい雰囲気でした。しかしそれは一時のことで、やがて戦況は暗転し、食べるものにも困る困窮の時代に落ち込んだのでした。それに加えて、東京は激しい連日連夜の空襲にされされて行ったのです。私の家も、何度か近くに空襲を受けたのですが、幸いにして高台の一隅だけが直撃を受けずに焼け残ったのでした。
 戦後の復興期に、戦災で家が焼かれなかった人たちに、「非戦災者税」という、読みにくい名の課税があったことを、かすかに覚えています。 

久しぶりですが

 久しぶりですが91歳なりに、かなり元気に暮らしています。身の回りでは、時たま来訪する孫娘の長男つまり曾孫(ひまご)とも、会話らしいものを交わしながら遊べるようになりました。子供が娘二人で終ったので志村の姓は伝わりませんが、そのことにあまり拘わる気持ちもありません。とにかく幼児が身内にいるというのは、楽しいものです。しかも自分は育児の責任者ではなく、楽しいつきあいの部分だけにかかわっていられるというのは、天からの贈り物とも言うべきでしょう。
 中野の町も、よい方向に変わりつつあります。永い間、中野の町の象徴だった「サンブラザ」のビルは、まだ独特の外観は保っていますが、すでに閉館となって久しく、撤去の時を待っている状態です。中野区役所は、旧庁舎よりも少しは駅からは遠くなりましたが、11階建ての近代的な建築に生まれ変わり、議会場も内包して、その屋上は、広く見晴らしの良い公園となっています。
 この町へ、埼玉県の草加団地から引っ越して来たのは、1976年(昭和51年)のことでした。もう50年にも近い昔のことになるのですね。最初は木造の二階家でした。 
 その後、10年ほどたって隣家に事情があって家を畳むことになり、その跡地を買い取って、今の三階建てのビルに建て変えることができ、今に至っているのです。
 この先、私にはどんな人生の展開があるのでしょうか。私には、まだ見通せない部分があります。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、天命はまだ私に何かを「為せ」と命じることがあるのでしょうか。私とは、どれほどの天命に耐え得る「器」なのでしょうか。




  

91歳の夏の終りに向けて

 91歳の夏の終りが、ようやく見えてきた。昼の暑さは相変わらずだが、午後になって、かすかに弱まった日差しが、ちぎれ雲から見え隠れするようになった。
 私は基本的に夏が好きだから、暑さそのものは、あまり苦にしない。秋になって、夏の日焼けの残る腕の表と裏を見比べて、キャンプ場での記録撮影を思い出すことも、なくなって久しい。「ふつうの老人」になって日を過ごすようになってからの記憶の方が、ずっと長くなった。
 身近には娘たちがいて、その外側には、複数の孫たちがいて、さらにその先の曽孫(ひまご)たちまでが顔を見せるようになった。その場での私の呼び名は「おおじいじい」である。「ひいじい」よりは、ずっと良い名だと、私は思っている。この場に「おおばあばあ」が居なくなってしまったのは、とても残念に思ってはいるのだが。
 自分の健康状態は、かなり良い方だと思う。日常生活には何の不安もなく、この10年間ぐらいで体力が落ちたという実感は何もない。ただし自転車は10年ほど前に物置の奥に入れたら、そのまま出すことがなくなって、そのまま乗らなくなってしまった。その代わりに、厚底のジョギングシューズというものを買ったのは、5年ほど前だったろうか。大いに歩行を楽しむつもりだったのだが、歩くだけなら、なにも特別なものを履く必要がないのに気がついて、これもそのまま置いてある。
 中野の駅は、現在大規模な改修の工事に入っている。新しい駅舎は、大きく西側に増築されるようで、これはわが家にとっては、駅が近くへ寄って来てくれることと同じである。妻がいてくれたら、きっと喜んだと思うのだが、もう故人になってしまったのが残念である。


 

記念艦「三笠」を見てきた

 一昨日のことになるが、横須賀基地見学のツアーに行ってきた。ここには日本海海戦で活躍した軍艦「三笠」が、岸壁に固定した状態で保存されている。日露戦争の「日本海海戦」で、ヨーロッパから回航されてきた「バルチック艦隊」に壊滅的な打撃を与え、日本の勝利を確実にしたことで知られている。ただし私も今回資料を読んで認識したのだが、三笠はイギリスで建造された船であり、当時の日本には、まだ自力での戦艦建造は不可能だったのだ。     
 私は個人的な興味でバルチック艦隊を調べてみたことがあるが、その名の通り、ヨーロッパのバルト海を根拠地にしている艦隊なのだった。バルト海はヨーロッパの北に開けている。ここから日本へ行くには、まず北海へ出て、そこからイギリス海峡を通り、小型艦はスエズ運河を通れるが、大型艦はアフリカ大陸を南下して、喜望峰を経由しないと東洋へは行けないのだった。私はこれを知って、妙にバルチック艦隊に同情したくなった記憶がある。
 これに対して日本海軍は、東郷提督の下で近海で猛訓練を繰り返していた。だから日本海海戦の勝利は、今から見れば「順当勝ち」だったのだが、当時は「東洋の有色人種の日本が、大国のロシアに勝った」というので、驚異的なニュースとして伝えられたということだ。このときアメリカ(たぶん)の新聞は「TOGO or not to go, that is a question 」と、「ハムレット」の名セリフをもじった見出しをつけたということだ。
 当日は天気もよく、遊覧船で一巡した港内のアメリカ海軍基地もよく見えた。日本がアメリカの世界戦略に、深く組み込まれていることも認識した見学だった。
(近頃はカメラを持ち歩かないので、写真がありません。やはり画面がないと面白くないですね。反省しています。)
 
  

ブログ再開します

 しばらくお休みしましたが、ブログ再開の手配をして貰えたので、久しぶりに書いてみます。とは言うものの、気づいてみれば自分の年齢はすでに91歳、1933年生まれですから、かなり高齢になっていることは事実です。ただし自覚している持病もなく、毎日を楽に過ごさせて貰っています。
 妻は2018年の末に亡くしましたが、三階建てのビルに改築したとき、「こうしておけば、あの子たち、どこへも行かないわよ」と妻が予言した通りに、二人の娘はそれぞれに姓が変わったにもかかわらず、今もすぐ身近に住んで、毎日のように顔を合わせながら暮らしています。そして私としては、孫のその下の曽孫(ひまご)と遊ぶ機会まで得られて、「おおじいじい」と呼ばれながら暮らしているのが近況です。
 今になって私の経験してきたことを振り返ってみると、かなり重層的な歴史の転換を含んでいるように思います。「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という朝の臨時ニュースを聞いたのは、小学(当時の呼称では「国民学校」)2年生のときのことでした。(これはハワイ空襲を告げたのではなく、仏印(マレー半島など南方)への作戦を意味しています。ハワイは西太平洋ではなく、ハワイ空襲の戦果は、その後の昼のニュースにかけて報じられたのでした。)
 その後に入ってきたニュースは、いずれも日本軍大勝利の続報ばかりでした。南方の資源地帯が日本の支配下に入るので、島国である日本の弱点はなくなった。アメリカの海軍は真珠湾で壊滅させたし、イギリスの戦艦プリンスオブウェルズとレパルスもマレー沖で撃沈したので、太平洋はすべて日本の支配下になる。日本の勝利は疑いなしという楽観が、一時的にもせよ支配的になったことは事実です。
 地図作成の業者は時流に乗って世界地図を作り、それが黒板の右に貼り出されて、日本軍の占領地には小さな日の丸を貼って行って、そして戦争が日本の勝利で終った時のための、中央に貼る大きな日の丸まで用意してあるのでした。そんな高揚した気分が、当時の教室にあったことは事実です。
 しかし実際は、周知のように私たちは年を追って苛烈な戦時下の暮らしを経験することになり、5年生では集団疎開に行ったり、その行き先が変わったりの落ち着かない日々になりました。そして私は親の判断で「自宅に引き取って縁故疎開をさせる」ことになり、結局は自宅に戻って、空襲下と終戦時の東京という、貴重な経験をすることになったのでした。 

夏本番の季節

 夏本番の季節になった。本来、私は夏が嫌いではない。とは言っても、汗をダラダラ流すような暑さは苦手で、肌がしっとりと潤うような程度の暑さが気に入っている。何かの解説で、ダラダラ流れるような汗を布で拭き取ってしまうと、1cc当たり何カロリーだかの冷房効果を、自分で捨ててしまうことになるという説を読んだことがある。その時に思い出したのは、熱帯に旅した時に接した現地の人たちが、かなりの暑さの中でも流れる汗を拭くことはなく、その肌が常にしっとりと潤っているように見えたことだった。たぶん最も効果的に水分の気化熱効果を使っていたのだろう。
 とは言うものの夏に有難いのは、やはりエアコンから降りてくる涼しい風である。この年になって、外を出歩くような用事は、めっきり少なくなった。近頃は、一日中家の外へ出ないまま終わってしまう日が、かなり多くなっているかも知れない。週に一度は行くことにしていたボウリングも、電車に乗らないと行けなくなってから、ついに間遠になって「水曜日」になっても思い出さないようになってきている。
地下にボウリング場のあった中野サンブラザも、閉館したまま、かなり長いことそのままになっている。区役所の移転など、かなり大規模な再開発の計画が進んでいる様子はわかる。
 妻が居なくなってからでも、もう、かなりの時間が過ぎた。その代わりに、孫が曾孫を連れて遊びに来たりもするようになった。自分はたぶん、その流れの中で生きて行けばいいのだろう。 

再開しますを実行します

「再開します」を宣言しておいて、不実行になっていました。我ながら情けない次第です。体調その他、生活環境はまずまずで、それぞれに独立して暮らしている長女と次女が連携をして、単身になっている私の日常を支えてくれています。生前の妻が「この家があれば、あの子たち他所へは行かないわよ」と予言した通りになりました。今も昼近くになって、食べやすい軽食が、居間の食卓に用意されています。
 考えてみると、ふだん当たり前と思っていることの多くが、年月を重ねた有難い習慣の功徳なのでした。兄二人、姉二人の末っ子として生まれた私は、今は最後の生き残りとして「志村」の姓を名乗っているわけです。
 父親から聞いた話では、静岡県でも北の山梨に近い安倍川奥、梅ヶ島には、明治の初めからすでに「志村」の姓があり、これは亡びた武田氏の落武者が定住した結果だろうということでした。そこで家の和服に「武田菱」と呼ばれる家紋が使われていたことを覚えています。明治の「創氏改名」以前から、由緒正しい姓があったと言いたかったのでしょう。
 そんなことを取り留めもなく書いているうちに、時間になりました。人の姓は固有のもので、結婚によって左右されないという習慣の国もあります。日本でも、結婚しても実用上の姓を変えないという女性が増えてくるのは、自然な流れのように感じられます。


ブログ再開します

 パソコンの交換で、新しい機器に慣れる必要などがあり、しばらくブログ更新を停止していましたが、本日から再開してみます。休止していた間に、家庭内にもいろいろなことがありました。
 まず、今月21日に、姉が死去しました。享年95歳でした。男、男、女、女、そして私が末子という五人の家族でしたが、これで残っているのは、末子の私だけになりました。斎場では、炉前で般若心経の最後の部分だけを唱えて、見送ることができました。
 91歳になっている私の身辺は、おだやかです。妻を見送った独身の暮らしにも慣れてきました。それでも休日には、孫が幼い曽孫(ひまご)を連れてきて、一緒に公園へ遊びに行くような、新しい楽しみもあるのです。この上は、私自身が、何よりも人に迷惑をかけない健康を維持して暮らして行くことが、自他にとっての幸せであろうと自覚しています。
 一日の終わりに、自分と対面する静かな時間を持つこと大切にして行きたいと思います。1933歳、昭和8年に生まれていますから、かなり古いことも知っています。父は私に「満州国が建国した年だから、国よりも大きい『建世』にした」と言っていました。「米英軍と戦闘状態に入れり」という太平洋戦争の宣戦布告を聞いたのは、小学2年生のときでした。それから戦争と空襲と、そして敗戦とアメリカ軍による占領支配の中で成人してきました。それらは「少国民たちの戦争」に記録しておいた通りです。
 しかし、何らかの形で、読者との質疑応答のような関係を築くことができたら、なお深い掘り出しができそうな気がしています。
 以上、ブログ再開のごあいさつでした。
 

  

91歳の誕生日です

 本日は、91歳の誕生日でした。ただし家の中でも話題になることはなく、私が何も言わないので、たぶん娘たちも気づかずにいたのでしょう。伝統的に、家族の誕生日を祝うという習慣は、私の家にはありませんでした。
 でも、90年を超えてここまで生きてきたのは、長かったなという実感はあります。父は私に「建世」という、本人にはやや重荷に思われる名前を付けたのですが、その由来は満州国の建国であって、「国」よりも大きい「世」にしたのだと聞かされた覚えがあります。ただし、いま調べたら、満州国の発足は、私の誕生よりも1年早い昭和7年のことでした。(満州国とは、中国北東部の当時の呼称で、日本軍の強い影響力の下に、中国から切り離され、満洲族の国とされたものです。)
 そんなわけで、私が成人して行ったのは、日本の国が世界の「強国」の一つとして、アジアの一角に権益を広げようとしている時期でした。そしてそれは、米英などとの権益の衝突を招き、太平洋戦争の勃発へと進んで行ったのでした。朝のラジオの臨時ニュースで、「帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」と知らされたのは、小学校(当時の名称は「国民学校」)の2年生のときのことでした。
 それからあとは、小学6年生の夏に経験した「敗戦の詔勅」に至るまで、ずっと戦争の連続でした。最後の一年間は、東京の空は、毎日が空襲の戦場でした。私の家が戦災で焼かれずに済んだのは、当日の風向きと、わずかな幸運の結果でした。
 そのあとは、アメリカ軍の占領下での戦後風景です。米兵のジープに「ハロー」と手をあげると、ドロップスなどの甘いものを投げ与えてくれるのでした。ただし交番の警察官に見咎められて、お説教を食らった、ほろ苦い記憶もあります。
 そんなこんなで、今の日本と、今の私たちです。運が良かったのか悪かったのかは、今さら何とも言えません。強いて言えば「いろいろあって、けっこう面白かった」でしょうか。
 この先、もうあまり長くは生きられないだろうことは、先刻承知しています。それでも不満はありません。私にも、曽孫(ひまご)と遊べる楽しい時間がありました。上々吉の幸運と言っていいのです。欲を言えば、妻がもう少し長く生きてくれたら良かったのですが、それも過去のことになりました。こうして私はまだ生きています。
(投稿が0時を過ぎてしまいましたが、18日の記事です)

「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました

 昨日は、旅にくわしい孫の案内で「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました。往復の列車からして、初めて経験する特別仕様車で、座席は進行の左側が2列、右側は一列のみという「ゆったり型」でした。こういう形の車両の存在自体を、私は今まで知らずにいました。勝田の駅からは、専用のバスが接続しています。ゲートを入ると、異次元世界に入って行くような感覚がありました。
 じつはここへ行ったのは初めてではありません。昨年の10月に行って、「また来てみたい場所が、一つ増えた」と思ったのでした。あたたかい春の日に行けて、本願達成したわけです。「上まで行ったら海が見えるだろう」と思った大観覧車にも乗ることが出来て、思った通りに太平洋を見晴らすこともできました。あとで、孫が手に入れていた案内地図を見せて貰ったら、今回は行けなかった広大な樹林エリアなど、奥深い見どころが、まだたくさん残っているようです。場内を一巡するミニ列車も、一度は乗ってみたいと思いました。
 この公園が「国営」であるのは、どういうことなのでしょうか。国の直営なら、どの官庁が担当していて、職員の身分はどうなっているのかなど、その面からも深堀してみたい気がします。
 それはともかく、国営の名のもとに、これだけの公園が維持されているのは心強いことです。自分も、もう一度と言わずに二度でも三度でも、長生きしてまた行ってみたいと思います。

ちょっと油断すると

 ちょっと油断すると、本当に無為のうちに一日が過ぎてしまう。体が健全体でなくなって、毎回の排尿を、カテーテルを通しての自家作業で処理しているのも影響していると思う。一日に数回、頃合いを見てすべて自分で出来るようになったのだが、それがかえって、一仕事しているような安心感になっているらしい。このペースなら、個室トイレさえ利用できればいいのだから、外出や旅行も、かなり自由に出来るに違いない。ただし全長40センチぐらいのカテーテルを持ち歩く必要があるのだが、これも昔の武士が、長い刀を腰に差して歩いたことを考えれば、あまり邪魔にもなるまい。
 長生きをすると、いろいろと面白いことを経験できる。可愛い孫たちにも会えたし、ひまご(曽孫)を抱くこともできた。
 
ここで中断、夕食に行く

燕温泉でのスキー合宿

 一転して、暗くて寒い一日になりました。強い雨ではありませんが、一日中、降ったり止んだりしながら、日暮れにさしかかっています。
 テレビニュースによると、台湾ではマグニチュード7.7の地震があったとのことで、観光客も避難するなど、混乱に巻き込まれたとのことです。日本でも沖縄は震源に近く、高台への避難などが行われたとのこと。所詮は不安定な火山列島に住んでいる私たちです。 
 しかし暦は春の四月、季節は確実にめぐって行くでしょう。夏が好きな私は、冬が苦手です。それでも高校時代には、豪雪で有名な燕温泉でのスキー合宿に参加したこともありました。関山の駅から、全員がスキーを着けて、半日がかりで宿にたどり着いたのでした。夜行列車で、あまり眠れなかったままの強行軍だったと思います。ただし行った先は、5メートルを超す深い雪の中でした。温泉の排水を、町の中心道路に流して往来していた風景を、今も覚えています。
 そこで習ったスキーは、武骨な「山スキー」でした。深い新雪の中でも対応できることを基本にして、急斜面のゲレンデに対応する「斜滑降」を最初に教えられたと思います。方向を変える基本は、山側のスキーを直立させてから谷側に倒し、次いで谷川のスキーを同様にして、その下側に倒す「キックターン」でした。これだけ知っていれば、かなりの急斜面でも初心者は対応できるのでした。
 でもこれは今から思えば、かなり特殊なスキー合宿でした。楽しむためのスキーなら、整備されたゲレンデスキーの方が、ずっと適しています。私たちは、昔ながらの「スキー道」みたいなものに取りつかれていたのかも知れません。スキーが、誰でも楽しめる身近なスポーツになる前の、ずっと昔のお話でした。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

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e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
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